ソレーマンと数年暮らすこの街のこの部屋へ戻ってきた時、俺は吐いた。
”跳ぶ”という表現が一番しっくり来るだろうか?とにかく、その時に言っていた負荷がどんなものか分からず
軽く考えていたのが甘かった様だ。
部屋へ着地すると同時に言い知れない重力が圧し掛かり、胃が飛び出してくる様な感覚に見舞われた。

「大丈夫ですかな…?」
「う…ご、ごめん…気持ち…悪…。」

もどす物が無くなっても尚、ムカつきが収まらず這いずって手近な桶まで行くと、内臓が落ち着きを取り戻すまで動く事が出来なかった。

「少々入り口を無理に作りましたでな…申し訳ない…。さ、これを。」

へたり込む俺に水をソレーマンは持ってきてくれた。

「ゆっくり飲みなされ?一気に飲まれるとまた戻しますぞ?」

コクリと頷き柱に体を預けたまま数回に分けて水を飲み干すとようやく落ち着く事が出来た。

「魔法って…こんな凄いんだね。」
「ほほ、慣れもありますでな。」
「魔法使いは皆こんな事が出来るの?」

何気ない疑問を言ったつもりだったが、ソレーマンはその問いに対してとても真剣な顔を向けてこう言った。

「魔法は。玩具では有りませんぞ。手に入れた力は危険をもはらみ、自身の命をかけねばならぬ事もある。決して得た知識をひけらかすような、そんなものではない事を覚え置いて頂きたい。」

そういうソレーマンの冷静に見つめる目が刺すような鋭さを持っていて少し怖かった。

それから数日。
俺はこれまでと変わらず街へ出かけ、出来る仕事があれば精一杯務め、ソレーマンとの日々と淡々と過ごしていた。
ソレーマンはと言えば、それまでの忙しさを失くし生気というものをまるで失くしている。
ただ淡々と朝がこれが起床し、夜になれば眠る。何をするという事もなく、毎日をぼんやりと送っているだけだった。
一国の魔法使いとして勤めていた彼は、国を離れてしまえば、ここではただの老人である。
王子を護るという役目も失くし、目的を全く失くしてしまったのだから、それは仕方のない事だと思っていた。
そんなソレーマンに何とか元気になって貰いたくて、俺は色々な事を試してみた。
今いるこの国の事をそんなに知っている訳ではないから教えて欲しいと頼んでみたり、少しは日の光を浴びた方がいいと散歩に出かけようと誘ってみたりもした。
けれど、どれも上手く行くことはなかった。
ソレーマンの事も心配だったけれど、俺は自分のこれからの事も考えなければならず、ずっとどうしたらソレーマンも俺も幸せになれるかと頭を悩ませていた。

俺は、ソレーマンとずっと居たい。それが一番の気持ちだ。
この意気消沈しきっている老人を置いて出るなんて事は到底出来るはずがなかった。
実の祖父との思い出はそんなに沢山はない。俺がまだ本当に小さかった頃に祖父は病で他界してしまったからだ。
両親の他で、俺を可愛がってくれたのは他でもないソレーマンしかいなかった。俺にとってみれば本当の祖父と違いない存在だ。
だから、出来る事ならソレーマンが生きている限りは共にありたかった。
もう互いの事を知るものは互いだけしかいないのだから…。

悶々と更に数日を過ごしたある日。
俺が街で買い物を済ませ帰ると、家に見知らぬ老人が来ていた。
ソレーマンよりも背が高く驚く事にその人の尻からは尻尾が生えていた。

「こ、今日は…。」

獣人というものが世界には居ると書物で知ってはいたが、見るのはそれが初めてでとても驚いた。

「やぁ、今日は。君は…ソレーマンのお弟子さんかい?」
「え…?弟子…?」
「何だその様子だと違うんだね。これは失礼した。俺はエイタス。ソレーマンの元弟子だ。宜しくな。」

差し出された大きな獣の毛が少し生えた手に驚くと共に、ソレーマンが弟子というものが居た事にも驚いた。

「あ、はい…俺はナミルと言います。ソレーマンは…。えっと…。事情があって今住まわせて貰ってるんです。」
「…そうか。ナミル君。良い名前だね。ソレーマンは頑固だけれど、良い人だからよろしく頼むよ。」
「勿論です!」

変に最後の返事だけ力がこもってしまって恥ずかしくなる。
パッと握手をしていた手を離すとエイタス氏はフッっと大人な笑みを浮かべて、またソレーマンと向き合い話を始めた。

「仲間内から伝え聞いてね。こっちに戻ってきたっていうから顔見に来たんだけど、思いのほか元気そうで安心しましたよ。」
「っほ。誰がお前に告げ口したか、大体想像はつくがの。」
「まぁ、喧嘩しないで下さいよ?彼も貴方を心配しての行動なんだから。」
「…そうだな。まぁ…喧嘩する気にもならんよ。」
「そんな隠居爺みたいな事言わないで。そうだこれちょっと見て下さいよ。」

そう言うとエイタスさんは杖を取り出しソレーマンとはまた違う聞きなれない呪文を唱えた。
すると杖の先に光が浮かびそこからメリメリと氷の籠が浮かび上がるとその中に氷の花と鳥が生まれた。
俺は知らず近寄ってその不思議な現象に釘づけになって見とれていた。

「この間ちょっと魔法を失敗したら、その副産物でこんな呪文作ってしまいましてね。」
「また変な物を。縄編もうとしてくしゃみでもしたか?どれ貸してみなされ。」

そういうとソレーマンは久しぶりに楽しそうに笑っていた。

「いやぁ、これでも花も開くし鳥も歌うんで、魔道具やにでも売ればちょっとはお金になるかもしれないですよね?」
「お前は直ぐ商売を考える…。これだから商売人の子は魔法使い何ぞになっちゃいけないんだよ。」

そう言いながら”間違えた”らしき呪文を紐解くようにかけ直しすと、それは本当にただの網袋になった。
”凄い…”俺は何がどうなってそうなったのかはちっとも分らなかったけれど、純粋にその魔法というものに魅入られていた。

「ま、とりあえず生きてる事も確認できたし、帰ります。あんまり無理しないで下さいよ?これでも心配は…してるんですから。」
「あやつにもイチイチ心配せんで良いと伝えておいておくれ。」
「はいはい。それじゃ、ナミル君も。…またね?」

軽くウィンクをして戸口を出ていくエイタスさんは何か含みのある言い方をして帰って行った。

「ほほほ。全く…あやつは幾つになっても子供の様だこと。」

そういうソレーマンの戸口を見つめる目はとても穏やかで、その瞬間俺は道が見えた気がした。
よく考えてから…と思ったのに、体が勝手に動いていた。

「ソレーマン!あのさ!俺、この先どうするか考えたよ。」
「…どうされる、おつもりかな…?」

そういうソレーマンは吃驚した顔をして、すぐにその顔を曇らせていく。
きっと、俺がここを出ていくというのだろうと思っているに違いがない。その顔を見て俺はどうにも高揚する気持ちが止められなかった。

「あのさ。俺、ソレーマンとずっと居たいんだ。でも、ただ俺が目的もなくいるっていうのは、ソレーマンにとっても辛いと思うんだ。だって俺がソレーマンの全てだったんだから…。でも、俺にとってはもう過去の事を話せる人はソレーマンしかいない。初めて今知ったけど、ソレーマンにはソレーマンの過去を話す人が沢山いるかもしれないけれど…でも俺にはもう居ないんだ。俺はずっとソレーマンを祖父の様に思ってきた。だから、我が儘かもしれないけど、俺はソレーマンと居たい。」
「そんな…。」
「良いから聞いて?でね。国を無き物にしてからソレーマンはずっとふさぎ込んでただろ?俺が何しても元気が出なかった。けど、エイタスさんが来て魔法の話をやり取りしてる時は、とても楽しそうだった。違う?」
「それは…。」
「でね、思ったんだ。魔法使いって言うものがどういうものなのか、俺さっぱり分からないけれど、もし俺でもなる事が出来るなら、俺をソレーマンの弟子にして貰えないだろうか?」
「何と!?そんな思いつきでお決めになるものではありませんぞ!?」
「違うよ!!ちゃんと…これでも考えたんだ!俺がソレーマンと共に居られて、ソレーマンも元気になるためには、きっとこれが一番いいんだよ。ほら、考え方をちょっと変えて見て?ソレーマンは俺を王にする事が目的だったでしょ?それを王じゃなくて魔法使いにするに変えて見たら良いと思わない?あ…でも…何かなる為に必要な特別な事があったりするなら…あれだけど…。」
「…暫く、考えさせてくだされ…。」

ソレーマンの口を挟ませないように矢継ぎ早にいうと、彼は考えさせてほしいという言葉の他、何も言わず黙ったまま自室へと引きこもってしまった。
失敗だったかな…と、一気に不安が押し寄せた。これで出て行けと言われたら、俺は出て行かなくてはならない。

「やっぱりもっと…ちゃんと考えてからにしたら…よかったかな…。」

あれだけとても良い事だと思われた事が、一瞬で良い案ではなかったように思われた。
その後夕食となっても部屋から出てこないソレーマンをそのままに、一人で食事を済まし眠りについた。

翌朝…といってもまだ陽も昇らぬうちではあるが、俺が何時もの時間に起きると珍しくソレーマンはもう起きていた。

「あ…おはよう。」
「お早う。ナミル。」
「今、ご飯作るね…。」

何時もの様に起きたつもりだったけど、寝坊したかと慌ててキッチンへいき、鍋を取り出しながら、ふと気が付く。
今…”ナミル”って言った…?
ソレーマンは一度だって俺の名だけで呼んだ事はなかった。”王子”だったり、”ナミル殿”だったり敬称を外して俺の名を呼んだことはこれまで一度もない。
そんな彼が今自分の事を”ナミル”と呼んだ。一瞬の事で聞き違いかとも思ったが、聞き違えるほど遠い距離ではなかった。

「今…何て…。」

鍋を掴んだまま振り返ると、うーんと顎に手をやり難しい顔をしてる。

「いやはや…慣れとは難しい物ですな。」
「今”ナミル”って言ったの?」
「…はい。」
「それって…あの、どういう…。」
「ほほほ、これは何と察しの悪い…弟子であることよ。いや、まぁ…まだ正式な弟子ではないが…。」
「弟子…それじゃぁ!?」
「はい。こんな老いぼれで、師匠が務まるか…不安がない訳では御座らんが…。」
「俺、俺!頑張って必死で覚えるから…!!」
「道は…厳しいですぞ?何しろ、私の寿命が尽きる前に独り立ちできるようになって貰わねばなりませんからな?」
「寿命!?」
「ホホホ…。冗談ですよ。」

何時もの様に温厚に笑うと、小さくまるで諦めたようにため息を溢し、俺を真っ直ぐ見てこういった。

「…滑稽に思われましょうが、私もまたナミル殿を手放す事は出来なんだ。幼い頃からお傍で仕える内に、
恥ずかしながら孫の様に思っている自分に遅ればせながらやっと気づいてしもうての。かといって、魔法使いというものはナミル殿が思うよりも楽な物では御座いませんでな。そんな柵を果たして本当に持たせてしまってよいのかという気持ちも、今こうして結論を出しても迷うております。だが、ナミル殿がこれから先もっと大きくなられる成長を見届けたいという、欲のが勝ってしまいました…。だから、ナミル殿からの申し出を、
お受けしたいと思うとります。」
「ソレーマン…。」

ここにこの先も居ていいという安堵する気持ちと、ソレーマンが俺の正直な気持ちを受け止めてくれた事が嬉しくて、気が付けば見っともなくも鼻を垂らして泣いていた。

「おぉお、まず何と汚らしいお顔をした弟子とはの。」

そう言って笑いながら近づくと鼻を拭き親愛を込めてそっと抱きしめると頭を撫でた。

「これからは、私の弟子として扱います故に、堅苦しい言葉は使いませんのでな?お心置き下されよ?」
「ははっ…堅苦しい言葉、使ってるじゃないか。」
「ほっ!そうですな。こりゃしてやられたの。」
「いつから…弟子になれる?」
「そうですなぁ…善は急げといいますしな…。ナミルが良いのであれば、今…済ませてしまった方が良いかと思うが…どうじゃ?」
「うん。いいよ…。」

抱き締めていた腕を離すと、近くなるペティナイフをソレーマンは手に取った。
そしてそれを手のひらに薄く引く。
ナイフが引かれた手は薄っすらと血が滲み、ポタリ…と床へ落ち染みを作った。
その後俺の手を取ると、ジッと顔を見つめ最後通告とばかりに確認をする。

「後戻りは…出来ませんぞ?宜しいか…?」

その真剣なまなざしは怖い程で、軽く身震いが起きる。俺の手を握る歳とは思えぬ力強さと、滴り落ちる血に少しの恐怖を感じていた。
それを振り払うように首をプルプルと振った後、

「うん。いいよ。」

と短く答える。

「少し、痛いですぞ?」

ソレーマンはそう言って掴む手の平に自分と同じようにナイフを走らせた。

「っ…!」

切られた痛みは一瞬で、同じように俺の手から零れる血が床でソレーマンのと混じり融ける。
すると、その互いに傷を合わせるように握るとソレーマンはとても低い声で呪文を唱え始めた。

”この者、長き古の術を求める物なり。力の均衡と安寧を護り歩む道を開かせ給え。我の血脈を与え分けこれに師弟の契りを結ぶ…。”

術を唱え始めるとその傷口から2人の体に光が広がり包み込むと、俺はたとえようのない高揚感と、その手から伝わる得も言われぬ力の塊の様な物が身体の隅々まで埋めていくのを感じていた。
そして、その光が徐々俺の左の肩へと集まると、それは痛む程熱く熱を持ち光が消えると同時にその痛みからも解放された。

「これでいい…。」

繋いでいた手を離すと、慌てて服をめくり痛みを感じた肩を見る。
そこには故郷の旗と同じ紋章が刻まれていた。

「これは…?」
「魔法使いは、それぞれ師匠と師弟の絆を結ぶと、印を与えられる事になっておる。ナミルには重荷になってしまうやもしれぬが、私にはその図柄しか思い浮かばんでな…スマン事をした…。」
「ううん…良いんだ。国は…なくても、俺はこの印の元で生まれた事は間違いないから。有難う…。」
「そうか…。ならいいんじゃ。」
「へへっ。これで俺も魔法使いの一歩を踏み出したんだね。」
「そうじゃ。明日からは1から教えていきますでな。覚悟されよ。」

こうして俺は王子ではなく魔法使いとして生きる道を選んだ。
未知の世界の扉を開けたのだ。これからはソレーマンと共に、自分の足で歩いていく。肩に記された印に手を当てながら、それに恥じぬよう生きて行こうと心の中で誓うと、明け告げ鳥が夜明けを知らせるには遅い声をあげて鳴いていた。新しい日が始まったと知らせる様に。

End...