プルト暦520年24日、私はワクトの元へと召された。
今はもう、神の気まぐれのままに新たな命として次の世へと送り出されるまで、
ただただ深く、眠りにつくだけの身だ。
しかし、その前にもし眠りにつくまでの許される時間があるならば、
現世の私として最後に思いを馳せたい。

私の名はハボック・ラセク。31歳で旅立ったのだから大往生といえるだろう。
仕事もそこそこ頑張ったおかげで、ウルグ長として国の評議員の一員としての立場も得ることが出来た。
性格といえば、社交的な方ではなかったと思う。
そのために一人でいる、少々持て余した時間は体を動かし鍛えることにつぎ込んだ。
そして、それはやがて実を結び、国の大会等では常連組として名を知られる事も出来た。

世間的に見れば人生を素晴らしく全うしたというべきだろう。

だが、私は亡くなる少し前の事、長い人生においては本当に少しのささやかな時であろう短い時間に、
自分が歩んできた道に大きな疑問を持つことになったのだ。
それは結局最後の時まで私の心に深く深く入り込み、
まるで迷宮に迷い込んだかのように出口の見つからないままここへ来ることになってしまったのである。

その疑問とは。

「私は本当に幸せで人生を素晴らしく全うしたのだろうか」

ということである。

前の部分でも言った通り、私は社交的な方ではない。
そのために、自ら周りにいる人たちと積極的に関わり合いになろうという努力をしなかった。
1人の時間を余すことなく自分だけの為に使い、人生を全うした。
それが自分には「幸せ」な事だと思っていた。
いや、今となっては「幸せ」な事だと思い込みたかっただけなのだろう。

今そんな風に思うようになったのは、命もカウントダウンを始めた頃に出会った
とある少女に要因があるだろう。
彼女は私の人生を激しく揺さぶり、心の根底を覆すような、そんな出会いだった。



彼女の名はユウナ・リード。
知識を外に広く求めるため、留学を目的として従姉妹と二人、国元を旅立ったのだという。
それが何の手違いか目的の留学先とは違う、我が国へたどり着くこととなり、
当初の到着先への行き方が見つからない為、「留学」という形はそのままに、我が国へ席を置くこととなった。
元々学習意欲・探究心が高い事もあったのであろう、予定の到着先への行き方を模索しつつ、
さらにこの国の事も知りたいという申し入れがあったために、
入国管理官が私を指導者の1人として挨拶に連れて来たのが最初の出会うきっかけであった。

私は彼女の瞳に博識を求める力強いまなざしと、溢れくる若さへの輝きに戸惑いと興味を持った。

若いころの私は人を敬遠し、その代わりにひたすら自分を高みをめざし仕事と武術にとひた走っていた。
今思えばそれに何の目的と意味があったのか、失笑してしまうのだが、兎に角そのために結婚をすることもなく、
また1人でいることに疑問を持つこともなかったのだ。

もし私に孫がいたならば、きっと彼女程の年齢になっていたのかもしれないなと無意識に思ったのが、
この私の心を揺さぶらせる最初のきっかけだったのかもしれない。
それだからなのか、彼女が私に挨拶の言葉を投げかけて来たとき、
私は自分でも思いもよらぬ言葉を彼女にかえしていた。

「何か困った事があれば、いつでも聞きに来るといい。私が知る事、答えられる事は教えてあげよう。」と…。

人との関わり合いを持つことをできる限り避けていた自分が。である。
自分でもその時なぜそんな返事を返したのか、さっぱり分からなかった。
”ウルグ長として教えを説くのは、別に特別な事じゃないさ。何らおかしなことではないだろう…。”
と後から自分に言い聞かせるように考えていたようにも思う。

それ以来彼女は所属ウルグも違うのに、毎日のように漁場を訪れ、
その度に何かしらこの国の事について、顔を合わす度に私の元へ訊ねに来るようになった。
そして、だんだんとこの国の事だけではなく、たわいもない話、例えばリムの漁場へ毎日来るのは、
従姉妹のレイラ・ミライカナイ君が漁場で粗相をしないように見張っているためだということや、
そんなどこにでもあるありふれた話などもするようになっていったのである。
私も彼女の学びに対する姿勢や普通のどこにでもあるような会話をする事に、
いつの間にか楽しく思うようになり、またその時間を大切にする様になっていた。



そんな日々が続いたある晩。
仕事を終え、訓練に出かける前に夕食を取ろうと一度帰宅した時の事。

「あの…。こんばんは…。」

普段人との付き合いのない私の家に来訪者等ない。
しかしその日はその来訪者のないはずの戸口に彼女が遠慮がちに立っていた。

「あ、あぁ。君か…。どうしたんだ?こんな時間に。」

「あの。いつも仕事場へ押しかけてしまって、忙しくされている所ばかりにお邪魔してしまってすみません。」

「何、そんな事か気にしなくていい。」

「それで、その…。もし宜しければ明日1日私に時間をいただけないでしょうか?」

「え・・・?」

「あ、えっと・・・ごめんなさい。この時間にお誘いするなんて…。変な意味じゃなく・・・その・・・。」

普段の彼女はまさに優等生というような、どちらかと言えば真面目でしっかりしている印象が強い。
その彼女が今は戸惑いたじろいでいる。
その姿に私は驚きと新鮮さを感じた。
そして、返答に戸惑っている自分にももっと動揺していたのだ。
「ユウナ君。ちょっと・・・座らないか?お茶、いれるから。」
「…はい。」

人にお茶なんて入れたこともなく、手間取っている私に

「自分が…。」と彼女が代わりに入れ始めた。

「…すまない。」

言葉少なにいうと、彼女はチラッと私をみて複雑なほほえみを見せた。

お茶を手にテーブルまで戻ると、話す糸口が見つからず、お互い黙り込んでしまった。
そんな中口火を切ったのは彼女の方だった。

「ハボックさん…、奥様やお子さんはいらっしゃらないんですか?」と。

「残念ながら…、ずっと今まで一人だ。」

この時である。心の奥の歯車が1つ小さくきしむ音を立てたような気がした。
”残念??”残念と思っているのか??と。

「そう…ですか…。でも、好きに…なった方はいるのでしょう?」

あぁ…。まただ。
1つずれた心の中の歯車が次へ次へとずれていく。カタカタと音を鳴らしながら。

「どう、なのかな…?もう随分昔の事だから…。分からない。」
「そう…。好きな人の事でも、忘れれしまうことって…。あるのね…。」

そう言うと例えようのない物悲しい笑みを彼女はした。
その顔はまるで成人したての少女とは違う、何か特別で触れてはいけない様な憂いを帯びていた。
私はその顔を見ていられず、こう彼女に告げた。

「さぁ、そろそろ日も沈んでしまったし…。人通りがあるうちに家に帰りなさい…。
こんな年寄りの所に、君のような未来ある若い子がいちゃいけない。
変なゴシップがついてしまってはいけないんだから…。私も訓練に出かけるし、途中まで送ろう。」
そういうと彼女を戸口へと促した。
「はい…。ありがとう…ございます…。」
そういいながら戸口を出る彼女について外へ出た。

雨上がりの為か空は随分と澄み、浮かぶ月はとても美しく、
明かりのない夜道もうっすらと淡い光が照らしていた。
大通りへ出ると前を行く彼女の髪を海風がさっと揺らし、
その秩序なく揺らめく髪が月の光を受け淡く艶めかしくきらめいている。
後ろを行く私には彼女の顔は見えない。だが、想像をすると胸が痛んだ。

あの時間彼女が私の家を訪れ、明日の約束をしようとしたことの意味を、
私だとて知らない訳ではない。長く年を経ているために、十分すぎるほど理解している。
また、このうら若い彼女が精一杯の勇気を振り絞り訪ねてきたことも。
ましてや相手はこの私である。祖父と言ってもいいほどの年を重ねたこの老人なのだから…。

心がざわついてやまない中、あの彼女が戸口で戸惑う姿が頭から離れない。
一瞬答えてやりたいと(彼女の言うように、年甲斐のない事はなくとも)、
熱い気持ちが体を駆け巡ったことに動揺し、
同時に理性が歯止めをかけたことを残念に思う気持ちに、
自分が分からないでいた。

”私はもう彼女のように若くない…。むしろ先が見えているんだから…。”
”馬鹿な事を。こんな年寄りを好いてくれるなど、そんなはずはない…。”
”きっと親許を離れてよりどころを父親のようなものとして拠り所を私に求めただけだ…。”

道行く足を進めるたび、あれこれと否定的な理由をつけて1つ1つ心の扉を閉じ、押さえつけた。
されど、一度解き放たれた気持ちは完全には消え去ってはくれない。
自覚してしまった彼女への自分の気持ち。
されど、許されるはずもない気持ち。
前を行く彼女に願った。”今、決して後ろを振り向かないでくれ…。”
きっと今自分の顔は平然とした年長者としての顔をしてはいないだろう。
きっとこの今の自分の顔を彼女が見てしまったら、
察しの良いこの子は私が心の奥底へと仕舞い込もうとしている気持ちに気が付いてしまうに違いない。

私は彼女にとって師としての立場でいるしかないのだ。
だから必死で心の奥底から願った。
”気が付かれてはいけない…。振り向かないでくれ…。”と。

通りを家の近くまで来たとき、彼女は急に顔を前に向けたまま立ち止まった。
そして一言こう聞いてきた。

「ハボックさん…。あの広い家で、たった一人、毎日寂しくはないの?」

答えられなかった。何故なら1人でいる事の寂しさを、ついさっき彼女が戸を出ていくその瞬間に、
人生で初めて知ってしまったのだ。
行かないでくれと、ここにいてくれないかと、言えたならどんなに楽になれたであろうか。
そんな気持ちは言えようはずがない。

「さぁ…。もう慣れてしまった事だから…。」
こういうのが精一杯だった。

「そう。もうここで大丈夫です。ありがとうございます。おやすみなさい…。」
彼女はそういうと一度も振り返る事なく家へと走っていってしまった。

その場に残された形となった私は、その場で暫く立ちすくみ、天を仰いだ。
「これでよかったんだ…。きっとよかった。」
絶望したような安堵したような、自分でも持て余す気持ちを空へ投げかけ、
1人流れる星の後を眺めていた。



次の日、何かが変わってしまうのではないかと思う私の予想は外れ、
彼女は何事もなかったかのように私の元へとやってきた。
顔を合せやすい様にと、ガアチウルグからリムウルグへの転属もし、
それまでにも増して顔を合わせるようになった。
何気ない日常の会話を交わし、国についての教えを説き、何事もないままゆるゆると日々が流れて行くことに、
心が「残念だ」と叫ぶのがチクチクといたんだが、
それよりも変わらずこの大切な時間を過ごすことが出来ることに安堵する気持ちのが大きかった。

彼女との一件があった以降、私は過去の自分の人とのかかわり方について思い返し、
自分がどれだけ周りに関心がなく気を配っていなかったのかということ、
またどれだけの人に生かされていたのかという現実にとても申し訳なく、情けなく恥ずかしい気持ちで一杯だった。

私が若かったあの頃、声をかけてくれた女性、名前すらも覚えていないことに悲しくなり、
また冷たかったであろう自分の態度に今更ながら憤怒すら覚えた。
もし、その時に私がちゃんと人に目を向けて関わりを持つ努力をしていたら、どうだったであろうか?
結婚もし子も出来、孫に囲まれるような人生とはどんなものであったのだろうか?
人は人とかかわらずには生きることは叶わないという事に気が付いた今、
自分の生きてきたことに本当に「幸せ」と思えることがあったのでろうかと、疑問を持つようになった。
そして夜になると、ガランとして灯りも点らない静まり返っている空っぽの家に1人でいるのが嫌になり、
前にもまして仕事も夜更けまでし、その後は明け方近くまで狂ったように訓練に没頭した。

そして彼女との距離はそのまま師弟という枠を最後まで越える事はなく、私は最後の夜を迎えた。

見舞いに来る客は少なく、人と関わり合いになろうとしなかった自分には、
当然の結果であろうと苦笑しながら、動かなくなった体を横たえ思うことと言えば、彼女の事だった。
きっと私にとって彼女は”初恋の人”なのだと思う。
この年を考えれば滑稽で仕方がないが、私にとっては最初で最後愛した相手であったのだろうと思う。

私が若くあれば、最愛の人となれたであろうか?
否、きっと若い私は彼女がもし愛してくれたとしても、その気持ちに気が付くことはなかったであろう。
そう思うと、この年になり彼女と出会ったのは、神が与えてくれた人生を見つめなおすための最後の贈り物で、
出会うべくして出会った事なのかもしれない。
彼女のおかげでとても人生を修正するような時間はなかったけれど、
私のおごりを気づくことが出来たのだから。

そんな事を考えながら微睡んでいた所へ彼女がやってきた。

「…ハボックさん。」
顔をひきつらせ、涙をこらえているのか難しい顔をしながら近づいてきた。
彼女が家へ来てくれたのが、今生の別れの為かと思うと、悲しくなった。
「具合は…いかがですか?」
「心配かけてすまない。老体にちょっと無理しすぎたみたいだ…ははは…。」
「早く…よくなって頂かないと…。まだまだ教えていただきたいことが、沢山あるのですから。」
「そうか…。すまない。けど、もう教えてあげることはできないかもしれないな。」
「いえ!どの方よりも体を鍛え努力なさっている事は、私がよく知っています!
だからきっと大丈夫なはずです。気をしっかりお持ちになってください。…お願いですから…。」
そういうとベッドの脇へと顔をうずめこんでしまった。

彼女がすぐそこにいる。手の届くところに。
手を…伸ばしても良いだろうか…?
私は酷く重い腕をゆるゆると伸ばし、彼女の頭を撫でた。

”あぁ…。何ていう幸福だろうか…。”そう思いながら彼女にこう告げた。

「君は…。私にとって最愛の愛弟子だ。だけど教えを乞うことが出来るのは、私だけじゃない。
君は1人じゃないだろう?周りを見渡せば、数えきれないほどの人がいて、
その多くの人がこれから君と関わり合いを持つことになり、その多くの人から学ぶことが出来るんだ。
大事なのは君を大切だと思ってくれる人達の気持に気づく事、君自身の気持ちに気づいて大切にする事。
君は私に訊ねたね?1人で寂しくないのかと。
君と出会うまでの私は寂しさを知らなかった。知ろうともしなかったんだ。
でも今は寂しい。1人でこの家にいる事を心底寂しいと思うよ。
でも、今は寂しくない。君がここにいるから。どうか悲しまないでほしい。私は幸せだ。
そう思って逝くことが出来るんだから。私の間違いを気づかせてくれてありがとう。」

すると彼女は顔をあげ私の手を両手で包み、ほほへ重ね、小さな声で言った。

「先生…。ありがとうございました。」

その顔は目が潤んでいる事を除けばあの初めて出会った日の力強いまなざしをたたえ、
素晴らしく美しいほほえみを輝かせていた。



夜、ただ部屋の明かりが揺れ焦れる音だけが響く中、私は息を引き取った。

随分と長くなってしまったが、冒頭に戻るとしよう。

私は人生を素晴らしく全うできたのだろうか??

答えは素晴らしくもあり、みじめでもあったのだろう。
結局の所答えなんてあってないない様な事なのかもしれないと今は思う。

私が彼女に対して抱いた思いは”恋”だったのか”愛”だったのか、はたまた別の物だったのか…。
分かっているのは私の生きた時間、最後の最後土壇場になって実感できる「幸せ」をもたらせてくれたのは、
彼女であったという事。
その事実の上で言うのならば、私の人生は「素晴らしく全うした」事になるのかもしれない。
願わくば、彼女のこれからの輝ける未来に、果てなき幸せがありますように。

さようなら愛しい君。またいつか出会えることを願って。

Pensée sans mort…。

いつかその答えを見つけるその日まで、しばしの眠りの中へ。